0.事案の概要
この事案では、固定残業代のルールが合意されているため、残業代が発送しないとする使用者側Yの主張の当否が論点となりました。裁判所は、固定残業代のルールが合意されていないとして、Yの主張を否定しました。
そうなると、実際の残業時間が問題になりますが、裁判所は、Yの主張を認めました(Xが主張する残業時間ではなく、Yが主張する残業時間を、残業時間として認定しました)。
1.判断枠組み(ルール)
裁判所は、日本ケミカル事件(H30.7.19労判1186.5)等の最高裁判決が共通して用いている表現を引用しています。すなわち、「雇用契約においてある手当が時間外労働等に対する対価として支払われているものとされているか否かは、雇用契約に係る契約書等の記載内容のほか、具体的事案に応じ、使用者の労働者に対する当該手当や割増賃金に関する説明の内容、労働者の実際に労働時間等の勤務状況などの事情を考慮して判断すべきである」という表現です。
この点について、裁判例の中には、固定残業代部分が明確に判別されることが必要、とするものもありましたが、阪急トラベルサポート(派遣添乗員・就業規則変更)事件(東京高裁平30.11.15判決、労判1194.13)は、X側が、固定割増賃金が何時間分の労働の対価であるかが明示されるべきであると主張したのに対し、裁判所は、固定割増金額さえわかればXは自分で算定でき、「一見して判別」できる必要はない、と判断しました。
判別容易性、明確区分性、等と称される問題です。これを、判断枠組み(ルール)に関する問題と見るのか、事実認定の際の上記「事情」に関する問題と見るのか、評価が分かれうるところです。少なくとも、判断枠組み(ルール)として明示されていないことは、上記表現から明らかです。けれども、上記「記載内容」という言葉に、判別容易性や明確区分性に沿った記載が必要、と読み込めば、判断枠組み(ルール)の問題として位置付けられます。また、「などの事情」に含まれる要素と位置付ければ、事実認定の際に考慮される問題として位置付けられます。
2.あてはめ
あてはめの段階でのポイントの1つ目は、判別容易性・明確区分性は、判断枠組み(ルール)や事実認定いずれでも要求されていない点です。
すなわち、裁判所が固定残業代の合意を否定した理由は、①雇用契約書が存在しないこと、②就業規則・賃金規定が無効であること、③実際に社長は雇用契約締結時に固定残業代と割増賃金の関係を説明していないこと、です。もし判別容易性・明確区分性がルールとして必要なのであれば、特に③を指摘するまでもありません。①②によって、固定残業代のルールが明確に示されていないことが明らかだからです。
加えて、Yは、固定残業代を含めた計算が前提となっていて、それを従業員も知っていた、固定残業代を含めなければおかしな数字になってしまう、等の趣旨の主張もしていますが、裁判所はこれらの主張についても、判別容易性・明確区分性の欠如などで一刀両断することなく、むしろYのこれらの主張に対して「合意の成否」の観点から丁寧に事実認定と評価を行っています。判別容易性・明確区分性のように、その表現や形式から外形的に簡単に判断できるものではなく、従業員の当時の認識など、個別具体的で外形的に判断できない問題として捉えているのです。
このように、固定残業代については、判断枠組み(ルール)のハードルは低い(会社にとって、固定残業代を認定してもらいやすい)ものの、事実認定やあてはめのハードルは高い(従業員は意を汲んでくれるはず、という甘えが通用しない)、という評価が可能です。
3.実務上のポイント
本事案では、さらに従業員の勤務時間がY主張よりも長かった、という点が争われています。具体的には、朝の早出残業、昼の休憩時間中の勤務、夜の居残残業です。
記録として残されている勤務時間を覆して、従業員側の主張する時間を勤務時間と認定する裁判例では、例えばパソコンのオンオフや、ネットワーク接続の有無など、客観的な記録が存在する場合が多いですが、この事案ではそのような客観的な記録はありません。
むしろ、職場の鍵の開け閉めすら他人が行っていて、従業員が物理的現実的に職場にいたことの直接の証拠すらない事案です。Xは、鍵の開け閉めの際、当該従業員も一緒にいたはずである、という主張を展開していますが、裁判所はこの主張に反する事情を幾つか認定した上で、全体としてX主張の裏付がないと認定しました。
鍵の開け閉めに全て立ち会っていたはずである、という主張は、それが防犯カメラに写っている場合であればともかく、容易でないことが示されたのです。
※ JILAの研究会(東京、大阪)で、毎月1回、労働判例を読み込んでいます。
その中から、特に気になる判例について、コメントします。
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